7年間〜今の私ができるまで〜 その7
| <小学6年生>(「自由ってなんだろう」の話) とっても自由な学校とされている学園に体験入学してみました。3泊4日くらいだったと思う。そこのすべてを理解するには十分ではなかったけど、大まかなところを知るにはちょうどよい期間だった。 本当は体験入学もしないで、もうほとんどここに入ると決めていたんです。本で読んだり話に聞いたそこはとても素晴らしかったから。でもやはり体験入学をしてからにしようと思ったのは、確か学園長さんにその方がいいと言われたから。 「入ってやってみないとわからないものですよ」 学園長さんの言うとおりだった。 実際、私は結局その学園には入学しないことにしたのだから。 何が悪かったということでもない。本で読んだことと違った部分もない。なのに体験入学から帰ってきたとき、私はもうここへ入学する気はありませんでした。 「自由な学校」はとことん「自由な学校」だった。 その学校は、豊かな自然があふれている山奥、良くも悪くも人里離れた場所にありました。 職員室は木のぬくもりを感じさせて、いつも生徒と先生の笑い声が響いてる場所。いろんな趣向の教室があって、どこへでも自分が好きなことをやる教室を選んでいい。料理が好きな子は、料理中心の教室に入ればいいというふうなシステム。 好きな服を着ていいんです。もちろん髪も染めていいし、指輪してもピアスしてもいい。 話し合いの場、のような時間がある。今不満なことや新しい提案など、意見のある人はどんどんここで出していいことになっていた。 どれもこれも、明るく楽しい理想的な学校というものに繋がっています。 けれど私には、どうしてもなじめなかった。4日間懸命になじんでみえるよう振舞ってしまったけど、自分が疲れただけ。 その学園には、強制されることは何一つないところのように見えます。 けど、違ったんです。一つだけ強制されるものがありました。 それが「自由」なんです。 学園が考えている「自由」というものに、私は4日間付き合わされたような気がしました。 たとえば自分の好きな教室を選択するときに、学園側はこう言います。 「友達が入るから私も一緒にというのではなくて、本当に自分がやりたいことをしている教室に入りましょうね」 その方が後々絶対にいいの。 ここには自分の好きな教室へ入れるという「自由」があるように見えます。 確かに一理あるとは思いますが、『友達が入るから私も』という考えが認められないのはなぜでしょう。 先生を先生とは呼ばず、みんな○○君、○○っち、というふうにあだ名で呼んでいるんです。なるほど、楽しそうだと納得。どんなあだ名で呼んでもいい「自由」。けれど、仮に先生と呼んでみたとき、振り返ってくれないのはなぜでしょう。 楽しいおしゃべり、寮の部屋。なぜ、みんなもみんな全員と、いつも親しげに楽しげにしていなくてはならないのでしょう。 個人が個人であることをつねに求められ、人の後をついていくようなことはあまりいいことではないという学園側の考えを私は受けました。これもなぜ、です。 みんな主張をきちんとして、どの子も自分の意思を持っている学園。 でも、途中から私は疑問に思うようになりました。・・・これは、自分の意思を持っているということになるの? と。 そうではなくて、むしろみんなで「学園の意思」を持っているのではないだろうか。 たとえば食事はみんなで一列にならんで、順に好きな食べ物をとっていくというバイキングスタイル。「野菜を絶対にとりなさいなんて言わない。そんなことをしなくても、子供たちは強制されなければ喜んで食べるようになるものだ」と学園は言う。「事実、学園の子供たちはみんな食べるようになった」と。けれど、経験してみてわかったこと。10人中10人サラダの皿をとって行くような雰囲気の中で、自分だけそれを拒否するというのは子供心に意外と勇気がいる。ためしにとらずにおいてみたら、「なぜ食べないの」と学園の子に聞かれた。 別に食べたくないからだよ。あなたたちこそ、本当にそれ、食べたくてとっているの?・・・と、聞いてみればよかったなあなんて今になって思う。 仮に聞いてみていたとしたら、「そうだよ」と言ったに違いないとは思うけれど。 疑問に思うことが多すぎて、体験入学から帰ってきた私は首をかしげてしまったのです。 自由って、なんだろう。 素晴らしいもののはずなのに、こうやって押し付けられると嫌になる。 けれどそれはきっと、学園にとっての自由が私にとっての自由じゃなかったから。 自由っていうのは愛とか幸せに似てるような気がする。 辞書を引けば読み方と意味が書いてあるけど、それは言葉のすべてじゃない。 本当の読み方と意味は、長い時間をかけて自分で見つけていくものなんじゃないかな。決して人に答えをもらえるものじゃなくて、だからこそ、こういう言葉には価値があるんだ。 「自由とはこうゆうものだ」と誰かが言ってしまえば、それはもう「自由」じゃない。ということは、もしかしたら実は存在しないものなのかもしれない。 けれど、自分なりに探していけたらいいなと思う。 |