この縁日は、見世物小屋が有名なところなんですが、ありました「だるま娘」。上の写真。
あんまりいい言葉ではないかもしれないですね。差別用語とみられるむきもありますが。出所に関しては、おそらくふたつの説があります。
ひとつは、都市伝説からきたものであるということ。都市伝説にかんして詳しいのはこのページですが、ネットで色々調べたところによると、これ以外にもいろんな物語の型があるようです。「若い夫婦」が「女子大生」になってたり。手足が切られてる以外に、娼婦として扱われ妊娠していたとか、
日本に帰ってきたときには完全に精神を病んでいて、そのまま精神病院に収容されたとか。色々ありますが、女の子が外国で行方不明になる⇒その両親が裏社会を捜索する⇒手足を切られた状態で見つかる⇒日本に帰ってくる というのまでは共通しているようです。
もうひとつは、実在の人物がモデルであるという説。中村久子さんというこの方は、両手両足切断という障害をかかえ、実際に見世物小屋の芸人として働いていらっしゃった。それを辞めたあと、努力して文学者になられたそうです。身体障害者に対する侮蔑が公然と行われていた時代を必死に生き抜いたことを考えると、すごい人だなと思います。
下は、見世物小屋の売り文句です。写真が失敗していて、ちょっと判読しづらいのですが、なんと「寺山修司 天井桟敷」の文字が。寺山は畸形に関するエッセイも書いてますし、さもありなんってところでしょう。
この見世物小屋をみてると、やはり縁日が裏世界であることがわかります。見せてなんぼ。倫理など気にしない。こうしたウラ文化ともいうべきものは、やはり何かひかれるものがありますね。あ、私は中までは見てません。ちょっと怖かったの……(^^; [追記10月22日]なんと!同じ見世物小屋が大阪にも来てたことがあったようです。やはり旅人ですね。テキ屋さんというより、これは見世物小屋専門業者さんのようです。
見世物小屋に関してはこのページがすごい詳しいです。上と下のページを合わせて推測するに、おそらく「安田興行社」という所がやっているだしもの。いまやこうした見世物小屋は存続の危機に瀕してるそうです。ごめんね、今度行って見かけたら、中も見せてもらうからね。
いやぁ、今回の縁日でいちばん興味深かったのはコレです。ここは、神の祝祭空間のはずなんですよ。それなのに南無阿弥陀仏って一体。お化け屋敷なんですが、慰霊の念仏のつもりなんでしょうか。しかし、基本的に作り物のお化けなはずですし、南無阿弥陀仏もフィクションなんですよね。
ふと思ったのですが、これって、明治政府がやった神仏分離政策以前の名残じゃないんでしょうか。
現在では神社さんとお寺さんは完全に分かれていますね。それは明治政府が国家神道高揚のためにはっきりと分けたためで、だからこそ、明治以降ずっとそうなんです。だから、それ以前は、神仏習合というわけで、わりとこういう光景も見かけることが出来たんじゃないかと思うのです。
そう考えると、ここだけ時間が止まっているような、そんな気さえしてきます。縁日には縁日の伝統というものがあって、それはわれわれが生きる日常からは想像もつかないものなのかも知れません。
総括
つたないものを最後まで見ていただいてありがとうございました。縁日というのは、一般社会からは想像もつかないような常識で動いている部分があるようです。おやくざさんとの繋がりがあるとか、色々いわれていますが、われわれが考えるような、9時5時の労働者の世界とはあきらかに一線を画すものがあります。
消費社会の記号論という観点からおもしろいのは、やはり消費喚起の装置としての縁日ということではないかと思います。行けば何かしら買いたくなるんですよね。縁日特有のオモチャや食べ物のたぐいは、独特の伝統をもって引き継がれてきたということだと思います。
また民俗学的な観点からいえそうなのは、われわれ現代人はこうした「ハレ」空間に「ケガレ」たものが持ち込まれるのを歓迎するということ。お化けなんかはその典型ですね。最近では、民俗学のほうでは、現代社会は都市化と高度経済成長の影響により「毎日がハレ」になってきているという言い方がされます。だから、縁日というのは「ハレ」の中のさらなる「ハレ」空間であるということが小松和彦氏によって指摘されています。こうした空間に期間限定の「ケガレ」はつきものなのだと思います。
次は、縁日どうしの比較なんかやってみるのもいいですね〜。できればやりたいです。そのときはお楽しみに♪
読後感を一言:
|