喫煙で肺がん危険率20倍 厚労省研究班が初の指針
がん患者の約2割を占める肺がんについて、厚生労働省の研究班は2日までに、初の診療指針を作成、肺がん患者の80−85%は喫煙者だとして「喫煙者が肺がんになる危険率は非喫煙者の10−20倍高い」と警告した。
指針は、他人のたばこの煙による受動喫煙でも21−26%危険率が増すと指摘。喫煙者や受動喫煙がある人は、がん発見のための検査を考慮するべきだ、と強調した。
研究班は、指針作成にあたり、国内外の約1000の研究文献を調査、肺がんの危険因子や治療法の有効性を検討した。
指針は、副作用による死者が多数出て問題になった肺がん治療薬イレッサ(ゲフィチニブ)について、一部症例で有効性が示されているが、生存期間を延ばす効果は証拠が不十分とした。(共同通信)
本日のyahooニュースからの引用だが、注目したいレトリックがいくつかある。
太字で示した部分に注目いただきたい。欧米にならった反喫煙ムーヴメントがうらにあり、喫煙者抹殺、あるいは喫煙者を許している政府への批判の意図を隠し持っているだろうと思われる部分である。
個々に説明しよう。まず、「危険率20倍」の部分は、本文の「非喫煙者の10−20倍高い」という記述から見て、あきらかに多めに見積もった数字だということがわかる。見出しという性格上、この部分が強調され、読者の目にふれることは多い。見出しだけ見て本文を読まない(多くは喫煙)者は、この数字を見て「あ、危険率が高いんだな、怖いな」という印象をもつことになる。
たしかに煙草は危険なのかも知れないし、喫煙ががんの危険性を高めることぐらい、みんな知っている。しかし、そういう常識を超えて、いまからこの研究結果をニュースとしてみんなに伝えましょうというとき、見出しに10−20倍とそのまま書いてしまうと、喫煙者にインパクトを与えるほどの効果はない――共同通信の記者はそんなふうに危惧したのではないか。というのも、いちばん目立つ見出しに10倍と書いてあるのを喫煙者が読めば、なんだそんなもんなの、と見くびって、これからも喫煙を続ける可能性は大いにあるからだ。こんな風な、見出しだけに多く見積もった数字を使い、人の目を惹こうとするレトリックは、この医者の研究結果は喫煙者を説得する力に欠ける、すくなくとも記者さんがそう思っていることを露呈しているんじゃ?と思わせるものがある。
もう一つ、「がん患者の2割を占める肺がん」という表現だ。この表現の裏をかえせば、がん患者の8割は、何か別のがんにかかっているということだ。そっちの方が多いということは特筆すべきである。「2割でしかない」と書かない理由を考えてみると、こうした宣伝的レトリックがよくわかる。
別の種類のがんの原因に、喫煙は考えにくいことも多い。遺伝、食べ物、さまざまな要素があるだろう。ほかの8割のがんに、こうした要素がかかわっている。しかし、2割の肺がんの原因である喫煙が責められるのに対し、ほかの8割のがんの原因となる食べ物や遺伝といった要素は、責められることが少ないように感じられてしまうのはなぜだろうか。
答えは簡単だ。つまるところ、責める相手がいないということだ。
食べ物に関していえるのは、たとえば他のがんの原因が(がんになりにくいとされる伝統的日本の食事ではなく)西欧化した食生活であるとして、そんな食事を供給するマクドナルドやケンタッキー・フライドチキン、コンビニエンスストアを誰も責めないことのおかしさ加減である。責めないのは、西欧化した食生活がもう、あたりまえになってきていて、責任の所在が不明確なことが理由としてあげられる。害のある西欧化した食事でも、みんな出してるから良心のとがめもないし、とがめられたところで「あっちの社もこんな油っこい料理を出してますよ」と責任のがれをすることができる。
遺伝の場合でも同じことだ。最近の遺伝子の研究領野では、ストレスが遺伝子を悪化させ、がんにつながるかも知れないということが囁かれている。しかし、現にストレスを生み出す上司を責めて罷免することもできなければ、そうした人間関係ストレスのせいでがんになったと声高に言ったとしても、だれも聞き入れてはくれない。こっちを辞めさせるのなら何であっちはのうのうとしているんだ、ということになるからだ。これも責任のがれである。ストレスを生み出すのはもはや社会である、という考えが根底にあって、がんになっても、だれのせいにもできない。つまり、だれにも責任がないのだ。
喫煙者の責任、あるいは煙草を売っている政府の責任が問えるのは、責任の所在が明確だからだ。逆に、悪い食べ物やストレスなどは、だれにも責任がない。集団責任は無責任なのである。たとえば寝たきりの老人が、マクドナルドの食事しか与えてもらえない状況のせいでがんになったとしたら、介護者は責任を問われるだろう。そういう状況になってから、初めて介護者のみならず、マクドナルドの責任を考えることもあろう。だが、みんなが有害な食べ物を供給している状況では、責任は問われないのである。マクドナルドのせいでがんになった、人間関係のせいで遺伝子が悪くなってがんになった、そうした声はたいてい客観的ではない(過労死とか労災でもめるのも、客観性が乏しいからだろう)。だから聞き入れられないし、責任も問われない。しかし、医者がもっともらしく「煙草はこんなに危ないんですよ」とデータつきでいえば客観的だ。だから、聞き入れられることもあろう。
だが、こんなレトリックつきで結果を公表し、暗に喫煙者や政府の責任を問われても、その客観性はあやしく思えてしまうことだろう。欧米的価値観に則った情報操作が行われた結果には、客観性もへったくれもないし、もっと勘繰れば、煙草を止めさせようというマスコミのプロパガンダに、「医者」という権威やその客観性が利用されている――そう思えなくもない。めにみえる、所在のわかりやすい責任を問うこと――いいかえれば、所在のわかりやすい集団責任は問われないことと、権威。この二つは密接な関係を持っていると思う。
集団責任が無責任というのは、あるいは、他人に対する想像力のなさともいいかえられるだろう。人間だれしも、興味のないこと、きらいなことに対しては想像力がないのだ。喫煙者や政府の責任を声高に叫び、抹殺しようとできるのは、非喫煙者にとって煙草がなんのメリットもないからだ。有害な食べ物を供給する業者は、「だっておいしいでしょ」で責任をのがれることができる。メリットがあるから。ストレスを生み出す上司は、「だってお給料もらってるでしょ」で責任をのがれることができる。メリットがあるから。しかし、家族にいわれて無理やり煙草を止めさせられた人が、精神的な安楽をえられず、家族に優しく接することができなくなる場合もあるだろう。その場合、間接的には、非喫煙者である家族も、その人の煙草によるメリットを享受していたことになる。そのことに気づかない、想像をめぐらすことができないというわけだ。
こうした想像力の乏しさによって、他人の言葉を鵜呑みにしてしまう人たちがいる。そんな、言葉のレトリックが世の中を操作していることは疑いないだろう。ちょっとした言葉のニュアンスも、軽視するのはおそろしいことなのだ。
べつに喫煙ばんざいと言うためにこれを書いたのではないし、喫煙が身体に悪いというのはわかっているつもりだ。しかし、マスコミの一方的な反喫煙論、あるいは喫煙者抹殺の風潮は、あまりにもヒステリックで病的に感じられることすらある。こういう反論も必要なのだ、とだけ付記しておく。
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